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旅するエンリコ : バシブズークを愛してくださるM氏によるアルコールショートストーリーです。
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#015 : ピノタージュ 2006/08/21
#014 : カント 2006/07/06
#013 : アシッド・レイン 2175 2006/06/04
#012 : きえる 2005/12/01
#011 : エンリコスプーキー 2005/10/27
#010 : 高い空に 2005/09/24
#009 : リノリウム 2005/06/22
#008 : トニック・ウォーター・ソング 2005/05/12
#007 : カーディナル 2005/04/16
#006 : ジャック・ダニエルを燃やして 2005/04/02
#005 : ヘチマ水 2005/02/28
#004 : バラードという街 2005/02/14
#003 : 50°スミノフ−20℃ 2005/01/13
#002 : アパシーの取り除き方 2004/12/22
#001 : Double Matured 2004/12/03
#015 : 「ピノタージュ」 2006/08/21
 あたしは今夜、宙に浮く。ネオンとアルゴンに照らされて。
 あたしの背にある一対の翼は、あの安っぽいマゼンダ・パープルに映える。世の中には使い古されたモチーフがいっぱいいっぱいあって、そのなかでも天使の翼はあまりにも言い尽くされていて、あたしはいったい今更何を話せばいいのだろうか。飛翔は逃避のメタファー? 死への憧憬? 愛されること? どれもピンと来ない。
 あたしの背にある一対の翼のタトゥ。彼のニードルはズキズキと疼くようにあたしを痛めつけた。彼はあたしをきつくきつく縛って、それからひどく鞭を打った。あたしは縛られるのが好き。何もかも彼が教えてくれた。
 あたしの裸。あたしの狂うところ。シャッターの音が絶え間なく聞こえて、あたしはあたしだけにたくさんの目が注がれるのを感じる。男たちはあたしを縛り上げて、それから梁に吊るす。長い鞭があたしの肌に絡みつく。なんども、なんども。そして、裂けるようにして血のひとすじひとすじがにじみだす。ひとりの男はそのうすい鎖状の血の粒たちを、舌を這わせるようにして舐めとっている。あたしはそんなときに彼のことを想いだすのだ。
 彼の心のなかはいまでもわからないことだらけだ。彼はあたしを愛してくれた。ひどくいびつで、そして狂おしいかたちで。彼の昂ぶりは暴力的で絶望的で、あたしはいつもそれを全身で浴びた。獲物を狩るのようなセックスのあと、彼はたいていあたしにアフリカを語った。ルワンダのジェノサイドを、ソマリアの内戦を、南アフリカのアパルトヘイトを。彼はそれらを自らの目で見、耳で聞き、嗅ぎ、味わい、触れずにはいられなかったのだ。彼は獰猛に取材したことだろう。あたしにはわかる。
 彼はアフリカへと旅立った。彼はたくさんの死と暴力と歪んだ政治を見た。文章をつづり、写真を撮った。日々起こる死に対して、彼はその意味を問うた。多くの場合、そこに答えはなかったが、彼は確実に少しずつアフリカの大地の上で流される血をとらえ、描写する方法を学んでいった。
 一時帰国のとき、彼はあたしにタンザニアン・サファイアの原石をくれた。それはちっともきれいではなくて、それがサファイアなのかすらあたしにはわからなかったのだけれど。彼は結婚しようと言った。アフリカで毎日、おまえの髪をつかんでおまえに乱暴にキスすることを考えてたよ。次に帰ってきたら、俺は絶対にいいジャーナリストになってる。そうしたら、俺たちは結婚しよう。
 彼は帰っては来なかった。正確にはわからないが、今日あたりが彼の命日。乾季。すべてのワイナリーがちょうどその年のピノタージュをつくり終えた頃。彼はアフリカのどこかで彼の被写体と同じように血を流して死んでいった。ピノタージュは爽やかな血の味。たくさんの血を吸った、奪い去り産み育む大地の味。そう、彼は言った。
 あたしの心にはいつもぽっかり穴があいていて、それが貪欲に血を吸うのだ。アフリカの大地のように。あたしは、ピノタージュを飲む。
#014 : 「カント」 2006/07/06
  ヘーゲルと弁証法。そんなものにはさっぱり興味がなくて。汗ばむような初夏の日、彼はただ頬杖をついて、哲学の講義を聞き流していた。
  尖った高い鼻梁。ブロンドの髪。丈の短いワイン・レッドのセーター。その裾から覗くすきとおるような白い肌ときれいなへその形。彼が見惚れていたのは彼女のそれ。
 その小柄なドイツ人講師は彼の視線に気がつくと、セーターの裾をぎゅっとひっぱり下げた。そして、講義も聴かずに自分のへそを見ていたその学生に発問をした。君は弁証法的な思考を実践するか。君の生活にはジン・テーゼたるものは存在するのか。ひどく機械的な日本語だ。僕はむしろヘーゲルよりカントが好きです。彼が即座に英語でそう答えると、講堂の男子学生たちからは品の悪い笑い声が起こった。彼女は彼を睨みつけ、何か口早なドイツ語で彼を罵った。もっとも、彼にはそれがわからない。
 そのことがあって以来、彼女は彼のことがひどく気になり始めた。身勝手で不遜な学生。自分より十五も若い。キャンパスですれちがう。カフェテリアで鉢合わせる。そのたびになぜかしら、動悸が訪れる。スタッフ・ルームでも同僚の講師から彼の噂を聞いた。彼の専攻はドイツ文学だが、ドイツ語は上手ではないという。実際に傾倒しているのは東欧の文学。しかも、ゴンブロビッチは英語で小説を書く。彼はキャンパスで人一倍目立つのだ。無礼だけれど、なぜか身のこなしが美しい。東欧の小説を読み、卑猥な詩を書いて、大量に酒を飲む。それが彼のすることのすべて。けれど、すらりとした体型と少年のような笑顔は、いつも周りの女子学生たちを魅きつけている。
 ある日、喫煙所で彼女が煙草を吸おうとしていると、彼がひどく近い距離感で隣に滑り込んで来た。接近戦に弱い。それを自分で知っている。息づかいやオーデコロンの香だけで、男を好きになってしまう。今、目の前にいるこの男は自分の無礼な行状を詫びさえしない。
ポケットから煙草の葉とリズラをとり出して、器用に両手で巻いてゆく。フィルターはなし。糊の部分を舌でなぞって重ね合わせると、彼はそのジョイントを彼女に差し出した。彼女は驚いて、その煙草を受けとってしまう。ありがとう、と言って。
   彼が彼女をデートに誘ったのは、その数日後。認めたくない。こんな極東の地で、こんなにだらしない男に恋をしているなんて。彼女はそう思っていた。けれど、彼は思いのほか誠実なそぶりを見せる。彼女はまいあがってしまう。その落差にやられてしまう。ああやって悪戯に微笑まれたら、キスさえもリードされてしまう。
 およそ丸一年。彼女は彼に夢中だった。ある日、彼女は自分の妊娠に気づく。そこから別れという結論を導くのは、悲しいほどシンプルだった。人は変われるというけれど、彼はきっと何百年生きたところで、その破滅的な飲み方を変えることはできない。彼は働くと言った。けれど、そんなことが問題なわけではない。  彼女は今飲んでいるこのジンを飲み干したら、最後にウンダーベルグを頼んで、それでチル・アウトすることができる。けれど、彼にはそれができない。彼はきっと明日の昼まで飲み続けるだろう。そして、その日の記憶を失う。夜中に目が覚めたときには何ひとつ覚えていない。そして、また同じことを繰り返す。だから、この子は独りで育てる。彼はまだ飲み続ける。彼女はそろそろだな、と思い、でも、やはり去りがたく、夜が明けるまで躊躇して、それから黙ってそっと店を出た。
#013 : 「アシッド・レイン 2175」 2006/06/04
  西暦2175年。日の照らぬ初夏。強酸性の雨に煙るトーキョー。スモッグはピンク色の塵。そう。ネオンサインに反射して、サイバーパンクで退廃的なあのイメージ。
 今日もダウンタウンのライブラリー・バーは活字中毒者たちの群れに溢れかえっている。活字中毒者―――彼らは絶えず活字を見つめずにはいられない。グラスを口に運ぶその瞬間も彼らは、手許のペーパーバックから目を離さない。鞄にも上着のポケットにも必ず何らかの書物を忍ばせている。それも複数。決して活字が切れてしまわないように。
 ミッドタウンの住宅街ではたまに見かける光景がある。それは活字中毒者のうちの誰かが活字切れによる発作を起こすところだ。今日もほら、そこにひとり。

 そのとき、ケヴは食事を摂りにダウンタウンに行き、ミッドタウンの自分のフラットに帰って来る途中だった。ケヴはダウンタウンのレストランに行くときに、もう200年も前に絶版になってしまったはずの、ヘミングウェイの『移動祝祭日』を携えていた。活字売人のルンから―――高値ではあるが―――特別に譲り受けたものだ。ケヴはその骨董品レベルのハードバックをまだ一頁も読んでいなかったのだ。彼は油断をした。それ以外の活字を持たなかったのだ。彼は、ダウンタウンのレストランで『移動祝祭日』を読みながら、生牡蠣を食べ、カヴァを飲んだ。そしてその帰り道に果たして彼は、別の活字中毒者に襲われたのである。その兇暴な活字中毒者はケヴにナイフを突きつけて「その活字をこっちによこしな。じゃなきゃ、オマエの目ん玉をこいつで抉ってやる」と脅した。活字中毒者にとって目を抉られるのは致命的だ。点字書物の総量は国内でも多くはないし、上物の入手は困難を極める。 ケヴは観念して、その活字中毒者に『移動祝祭日』を渡した。
 ケヴは発作が現れる前にアパートへ戻ろうと急いだ。しかし、ついにミッドタウンの住宅街の真ん中―――最も書店の少ない界隈で発作を起こしてしまったのである。震え、吐気、めまい。彼は道路にうずくまり、ジャケットのタグの洗濯方法を必死に読んだ。「MADE IN MEXICO 100%NYRON 塩素サラシ不可 ネット使用」四度続けてそれを読んだのだけれど、それだけでは彼の発作は治まらない。さらに、ポケット・ティッシュの広告を貪るように読む。「人工臓器各種。人工頭脳有り/」ダメだ。効果なし。このままでは、禁断症状で死んでしまう。
 「お兄さん、助けてあげるよ」和紙のドレスを着た街の女がケヴに声をかける。
 ケヴは顔を上げてすがるような目で彼女を眺めた。彼女はケヴの手をとる。ケヴは彼女に導かれて、路地裏の売文宿に転がり込む。彼女たちは売文婦。19世紀のタイプライターを使って、活字中毒の客たちにストーリーを書く。当局は印字による売文を厳しく取り締まっているのだが。というのも、2100年よりこちら深刻な紙資源不足が起こって、政府は全面電子文書化計画を推し進めているのだ。しかし、活字のジャンキーたちはディスプレイの文字では発作を抑えられない。
 「さあ、お兄さん。どんなストーリーがいいの? ビートニク? シュールレアリスム? ポスト・ミニマリズム? それとも、ロシア風なモノローグがお好き?」
 ケヴは両腕を自分の身体に巻きつけて、禁断症状に耐えている。けれど、いま彼には聴きたいストーリーがはっきりとある。しわがれ声でこたえる。
「21世紀初頭のテイスト。デカい道路とかで区画整理される前の、ごちゃごちゃした魅力的な街。そのなかの小さな薄暗いバー。暖色の灯りの下で、スタウトかポーターか、口当たりのいいビールを飲みながら読む、そんなストーリーを頼みたい」
 売文婦は微笑んで、タイプライターを打ち始めた。
#012 : 「きえる」 2005/12/01
  ヒューガルテンのグラスにレモンを搾ると、泡がスーッときえてゆく。その泡はあまりにもあっけなくて、この夜のはじまりをひどく曖昧なものにする。
 誘拐されたことがあるの、と君は言った。
 今夜深く君は僕に浸食する。僕は何もかも吸いこむみたいだ。ぐにゃりと歪んだ距離感。
君と僕。今夜、君と僕はこんなにもアイソトニックで、でもきっとそれはこの刹那のことでしかない。
 僕は喉の下のほうへヒューガルテンのかたまりを落としこむ。ごくごくと鳴って、その音は君に心地よい。君は君で唇を湿らす、何かカスケード・ホップの甘いビールで。同じようにそのアロマは僕に芳しい。
 君は言う。心を閉ざすのはすごくすごく易しい。あのときに気づいた。あたしは黒いセダンのバックシートで、何も感じない。ただちょとだけ紙ヤスリみたいなものであたしがけずられるだけ。痛いけど、鈍すぎてよくわからないの。
 僕は君を抱きしめたいのだけれど、君の肩はあまりにも透明で。触れられない。くずれおちて、何もかもきえてしまいそう。きえてしまいそう。
 陽あたりの悪い竹やぶの裾。その斜面であたしは人形のようにじっとしている。
飢えたような息づかいが聞こえて。ほんとうはあたしを求めてるわけじゃないのに。
 君の視線の先、そこには何もないのだけれど。ただよう空気のかたまりをただ、僕は見るともなく見つめる。混沌。カオス。それが、この世界。
 怖かったのは一瞬だけ。だけど、もう眼を閉じてしまった。眼だけじゃない。心を閉じたの。五分、一時間、何億光年。どれくらいのときなのかもわからない。あたしはそこにはいなかった。ほんとうに何も覚えていない。
  気づいたら、あたしは藪に放り出されて、独りぼっちだった。あたしはただ生きていたし、どこか死んでもいた。死んでしまったあたしはずっとずっと死んでいる。
 僕はやっと君を見つめる。目の前にちゃんと君がいることを確かめたのだ。君は軽く微笑んで、そのビール美味しいの、と僕に訊ねる。僕は自分にもう一杯、彼女にも一杯ヒューガルテンを頼むことにする。
 僕はまた新しいヒューガルテンのグラスにレモンを搾る。泡がスーッときえてゆく。いつもと同じように。よどみに浮かぶ泡沫はかつ消えかつ結びて。
 しばらくのあいだ君の話はガス気球のようにぽっかりと僕たちの上に浮かんでいたのだけれど、それはそのまま夜の闇のどこかへときえいってしまった。
#011 : 「エンリコ・スプーキー」 2005/10/24

 今夜は磁場がねじれてますねと、そのバーテンダーは言った。磁場? 僕は何のことかわからなくて、そう訊き返した。バーテンダーは何も言わず微笑んで、僕の前にラフロイグ&ソーダを置いた。
 ひどく喉が渇いていて、ラフロイグ&ソーダをほぼ一息に飲み干してしまった。少しだけ、むせた。流行りでもない風邪をひきこんで咳がとまらないのだ。さっき服んだ咳止めのリン酸コデインはまだ効いてこない。レイ・チャールズが流れている。確か聴いたことのあるライヴ音源だ。62年のベルリン? こんなにクリアな音だっただろうか? 
 同じものを。はい。62年のベルリンだよね。ご名答です。こんなにクリアな音だったっけ? 今夜は磁場がねじれてますから。ハロウィーンだからかな? 
 僕は笑いながらそう訊ねた。バーテンダーは新しいグラスをそっとコースターに置いた。
 火星です。火星? 火星は26ヶ月ごとに地球に最接近するのはご存知ですか? うん、それで? 今年はそれが今日にあたります。へえ。ハロウィーンの前後に火星の最接近が見られるのは13年ぶりのことです。
 僕は狐につままれたような気分ではあったけれど、ただ黙ってラフロイグ&ソーダを飲み続けることにした。レイ・チャールズは歌い続けている。一時間半あまり。What I’d Sayが終わり、拍手とともにアルバムも終わる。静寂にはっとして顔を上げる。ラフロイグ・ソーダをいったい何杯飲んだだろう? 咳はだいぶおさまっている。
 だけど、おかしなことに目の前のラフロイグのボトルはまったく減っていない。不思議に思ってバーテンダーに訊ねようとすると、突然アンコールが流れ出す。さっきと同じ空気。同じ音質。62年のベルリンで、What I’d Sayの後にアンコールが続いただろうか? そんなはずはない。レイ・チャールズのアルバムにゴースト・トラック? そんなはずもないだろう。
 レイ・チャールズはまだ死んで間もないので比較的甦りやすいですね、とバーテンダーが言った。死に方もいいしね、とつけくわえて。レイ・チャールズが甦りやすい? じゃ、ジョン・レノンは? シド・ヴィシャスは? カート・コバーンは? 僕は訊ねた。ダメですね。みんな死に方が悪い。特にジョンは鮮度もよくないし、あまりにも文学的すぎます。死に方が、とバーテンダーは冷静にこたえた。今日は死んだミュージシャンを甦らせる儀式でもやってるっていうの? そう、僕は冗談半分に訊いてみた。いいえ。リスナーの思いさえ強ければ、死んだミュージシャンはいつでも甦るんですよ、とそのバーテンダーは言った。
 突然、店のドアが開いて強い風が吹き込んできた。キャンドルの灯が消える。でも、ドアの外の人影はまだ店の中に入ってこようとしない。そうだ。こんな夜には、レイ・チャールズがやってきて、トリック・オア・トリートと言ったとしても不思議ではないのだ。
#010 : 「たかい空に」 2005/09/24
  紅葉があまりにも綺麗で、僕は息が止まりそうになる。風は冷たく湿っていて、空は胸が痛くなるほどに澄んでいる。
 一時間ほどまえ渓流に鱒釣りに出かけていた連中が戻って来た。けっきょく鱒は一匹も釣れなかったそうだ。湯治場で留守番をしていた僕への土産は、ペットボトルに汲まれた渓流の清水。僕はいまその水でボウモアのトゥワイス・アップを飲んでいる。ひとり温泉につかりながら。
 彼女は今、釣りから帰ってきた自分の男のところにいる。男が釣りをしているあいだ、彼女は僕と二度セックスをした。僕は温泉の湯に長く手を浸す。昨日の釣りのときから、鱒のにおいがこびりついている気がする。そして、その手と指で、僕は彼女の性器に触れた。彼女は目を瞑り、声を押し殺していた。
 96年の秋を、澄みきった空気のなかを、僕はそうやって過ごした。僕は何にも頓着しなかったし、誰も僕に頓着しなかった。ラジオからはニュースがこぼれてくる。アメリカ軍がイラクを爆撃した。大統領は再選を目指しているというのに、支持率は依然低いままだから。
 温泉に半身つかっていると、彼女の男が僕の目の前に現れた。渓流釣り用のゴアテックス・ウェーダーを穿いたまま、バシャバシャと岩風呂に入ってきた。男は野太い声をあげながら僕を殴った。何度も何度も、頭や、顎や、胸を。
 僕はひとしきり殴られたあと、口のなかの血を吐きだした。その血は湯に落ちて靄のようにたゆたい、豊富な水量のなかにあかいろを失っていった。男は肩で息をしながら僕のことを見つめている。もう、睨んでいるというふうでもない。
 僕はボウモアを口に運び、ゴクリと飲みこんだ。潮が傷にしみわたり、泥炭が僕をつつみこむ。濡れた手でなんとか煙草に火をつける。ラジオはアメリカ軍の誤爆を報じている。たくさんの死傷者がでた。
 世界にはちゃんと暴力があって、血は血の味がする。僕に信じられないのは暴力ではなく、その頓着だ。僕にはそんなにも守ろうとするものは何もなくて。ただ、紅葉があまりにも綺麗で、僕は息が止まりそうになる。
 立ちつくす男の前で、僕は二本目の煙草に火をつけた。彼にも煙草を勧めようかどうか迷って、結局そうしないことに決めた。僕の煙草の紫煙は温泉の湯気と混ざり合い、高い高い秋の空に吸い込まれ散っていった。
#009 : 「リノリウム」 2005/06/22
   リノリウムを蹴る音が聞こえる。ミュールをひきずって、それからパチン。ずるずる、パチン。君は僕がサボテンの下に鍵を隠しているのを知っている。チャイムもノックもなし。ガチャガチャとドアを開けて、はやくも今朝利用した交通機関に悪態をつきはじめる。君のipodシャッフルにはラウドな音楽がいっぱいつまっていて、イアフォンをしたままの君はそれと知らず大きな声を出している。
 まだベッドのなかにいた僕は君を抱き寄せて微笑むのだけれど、「汗くさい」とだけ君は言って僕を押し退ける。ベッドの上に体育座りした君はリモコンの▽ボタンを連打して、僕の部屋を18℃にしようとしている。「暑い」と十五回くらい言った。僕は君のそんな短絡的なところが好きだ。
 君は僕の隣でひとしきり涼むと、猫のように丸まって今度は僕のタオルケットを奪う。僕は「やれやれ」と言いながら、リモコンの△ボタンを押して室温設定を25℃に戻す。そろそろおなかが空いたと言い出すだろうな、と思っていると、君はおなかが空いたと言う。
 僕がキッチンでラザニアを焼いているあいだ、君はクラッシュのPVを観ている。ミック・ジョーンズもジョー・ストラマーもにこりともしない。モノクロームの画面の中、ステージの隅のでっかいアンプの上には、白ワインのボトルが何本も並べてある。奴らは怒るように歌って、唾を吐いて、白ワインを飲む。
 狭い僕の部屋で、君はベッドに腰かけて白ワインを飲む。タンブラーで。ワイングラスはこのあいだ洗うときに割ってしまった。ジャンケンに負けた君はかなり乱暴に洗いものをしていたから。
 君の口のなかは甘い。どうしてこんなに甘い香りがするんだろう。起き抜けの僕の口は嫌なにおいがするというのに。君の口にはラザニアが残っているけれど、僕はかまわずキスをする。笑いながら。それから、僕たちはワインを飲んでラザニアを洗い流して改めてキスをする。今度は笑わずに。
 食事の途中でベッドに行くのはひどく気分がいい。パパもママもここにはいない。ベッドの中、頬と頬を寄せる。オーストラリアのシャルドネはたった二杯で君を上気させていて、君の頬はすごく熱くほてっている。その温かさが心地よくて、僕たちは顔と顔をずっと近づけている。僕の顔に君のまつげがパチパチとあたる。
 梅雨の前の短い初夏。外は曇り空のくせに汗ばむくらい暑くて、僕たちはもう今日はどこにもでかける気はない。世界が核戦争をしようと、タオルケットにくるまれた君と僕は誰にもいつまでも邪魔されない。世界は静止している。誰も前に進まなくていい。
#008 : 「トニック・ウォーター・ソング」 2005/05/12
 ゴドボール教授は歌をうたう。神よ来れ、神よ来れ、と。旋律は不安定で、英国人の聴衆たちはそのメロディの行き先を知らない。
  E.M.フォースター著「インドへの道」の一節だ。そのバラモンの教授はムスリムとクリスチャンを前にヒンズーの神をうたう。神よ来れ、神よ来れ、と。しかし歌は途切れるように終わり、羊飼いの娘のもとに神はいつまでもやっては来ない。
  作中、英国の役人たちと気取ったご婦人たちはマラリアよけにとジン・トニックを飲むのだが、ほんとうはキニーネに予防作用はない。ジン・トニックを飲むと、僕はいつも「インドへの道」を思い出す。それは他者を理解し受け入れるための物語だ。あるいは、理解できぬものすら受け入れることができる、ということを教えてくれる物語だといってもいい。


 
 93年の東京の夏はひどく寒くて、そのシタール弾きの老人の家では暖炉をくべていた。老人の屋敷の中にある小さなスタジオで、僕たちのバンドは8トラックの録音をした。20の弦と21のフレットを持つそのインドの民族楽器は、僕たちのバンドの音とは全然かみあわなくて、僕はもうすっかりうんざりしていた。
 老人の家にはいつもたくさんの果物があった。老人は自分のことをフルータリアンだと言う。実際、僕たちはその老人がフルーツ以外のものを口にするのを見たことがない。もちろん、酒と煙草をのぞいて、ということだが。
 僕は分厚い夏みかんの皮をナイフで剥こうとして、左のてのひらをさっくり切ってしまった。老人は「トニックを飲みなさい。化膿が防げるから」と言った。僕は右手一本で不器用に止血をしながら、そんなのはあやしいものだと思って聞いていた。日本のトニック・ウォーターには最初からキニーネなんて入っていない。
   
 老人はジンを飲み、煙草を喫った。フルータリアンはジンを飲んで煙草を吸ってもいいものなのか、と僕は老人に訊ねた。老人は言った。ジュニパーもヴァージニア・タバコも存分に大地と太陽の恵みを受けている。それらは血を流さない。
 ギタリストは首をかしげ、ドラマーは肩をすくめた。二人は不遜な態度で老人に合掌し、ナマステと言った。そして出て行ってしまった。僕は老人といっしょにジン・トニックを飲み、甘い煙草を喫った。
 老人はマンゴーをひとつ食べて、雑巾のような布で手を拭った。そして再びシタールを奏で始めた。僕は自分のベースを手にして、ちょっとだけ痛む左手で音を探った。今度はルートを追うのをやめて、独立した旋律をつくろうとする。老人はにっこりとする。次に、僕は鼻歌でちょっとしたメロディを口ずさんでみる。
 神よ来れ、神よ来れ、と。
※トニック・ウォーター・・・トニック(Tonic)という言葉には、“元気をつける”、“強壮にする”という意味がある。ソーダにレモン、ライム、オレンジなどの果皮のエキスと糖分を配合してつくる、ほろ苦さと爽やかな風味をあわせもった、無色透明のイギリス生まれの飲料。なかには、キニーネ(キナの樹皮のエキス)を少量添加した銘柄もある。

#007 : 「カーディナル」 2005/04/16
 霞の空は低い。三月。日が暮れかけて、まだ肌寒い。
 カフェは雑多な音であふれかえっている。まるで僕は超能力者になったみたく、離れているはずの厨房の音を聞いている。あたりの席を走り回る子どもたちの声は、僕の頭の中ではヴォリュームをしぼられてBGMになる。今、僕がチャンネルをあわせているのは、厨房の油の音。蛇口から水の滴る音。皿と皿のぶつかる音。僕はぼんやりとした頭で気持ちよくそれを聞く。
 向かいに座っている姉がくしゃみをした。その音がやっと僕をこちら側に引き戻す。姉は花粉症についての自分の意見を述べている。姉によれば、それは植物の人間に対する復讐であり、僕たちが森林伐採をやめることでしか食い止めることができないのだという。僕はそれに反論をする。花粉は化学生態兵器であり、それはCIAによる陰謀だ。姉は僕の頭がおかしいというジェスチャーをしてみせる。
 「あなた、いったい何を飲んでいるの?」「カーディナルだよ」「違う。それ以外に何を飲んでいるのって訊いてるのよ」僕は肩をすくめる。なんだか寒くて、さっきからホット・カーディナルを飲んでいる。赤ワインにクレーム・ド・カシスを加えた温かいカクテルだ。姉はマーティニを七杯も飲んでいる。紙ナプキンにオリーヴの種と鼻水を出す。
 「カーディナルだよ」僕はもういちど言った。「17世紀ボストンのピューリタンたちはね、浮気した女の服にこの色でAって文字を縫いつけたんだよ。Adultery(姦通)のA」「ホーソンの『緋文字』でしょ。知ってるわよ。でも、それはスカーレットよ。もっと明度と彩度のある緋色。カーディナルじゃないわ」「どう違うんだよ。浮気女の色だろ」「何が言いたいの?」「別に何も。浮気女の色のカクテルを飲んでるってだけだよ」「いい加減にして。少しは大人になりなさいよ」「ついでに、近親相姦をした奴はIncestのIを縫いつけられたんだってさ」
 姉はただ悲しそうに首を振って、それっきり黙りこんでしまった。しかたなく僕は背もたれによりかかって、隣のテーブルを片づけているウェイトレスの胸の谷間を眺める。ポニーテールと乳房は同じ振幅で揺れている。
 そのとき、カフェを蔽っていた大きな雲が頭上から唐突に途切れた。東京の濁った夕焼け空は、さっきまでうす暗かったカフェをいっぱいに照らす。くすんだ壁がまばゆい緋に明るんで、僕はめまいがしそうだ。ひかりを背にして、ウェイトレスの身体の輪郭がくっきりと浮かびあがる。ばかみたいに神々しく。
 「あなたのことを愛してるのよ」姉がそう言った。
 あの日。西陽は痛いくらい低く射しこみ、象牙色の壁に映えるウェイトレスの白く細い腕のうぶ毛は鮮やかな緋色に強くひかりかがやいていた。

#006 : 「ジャック・ダニエルを燃やして」 2005/04/02
 別に旅行に行こうと決めていたわけじゃない。十月のある夜、新宿から渋谷に向かうタクシーのなかで、僕の友達が「温泉に行きたい」と言いだしたのだ。ゲイに特有のあの唐突さで。僕は「OK」と言った。
 僕たちは若くて、時間をもてあましていて、そしていつも酔っぱらっていた。僕たちはハチ公口の改札をくぐったとき、渋谷←→恵比寿間の回数券でどこまでも好きなところへ行けると本気で思っていた。そして、実際そういうふうになった。
 夜行列車の中ではもっぱら彼が話す。僕は彼の話を聴いて、微笑んだり声をあげて笑ったりする。さっきは温泉に入りたいと言った彼は、今度は海が見たいと言いだした。僕は「OK」と言った。もともと目的地なんてない。
 午前二時の海辺の駅は暗く静かで、僕たちのほかには降りる乗客もいなかった。僕はホームの端から線路に跳び下りた。それから、彼の手をとって、彼が跳び下りるのを手伝ってやった。金網の破れ目を見つけて、それをくぐる。そして、どこかで物音がして、僕たちは少しだけ走る。
 霧のようなかすかな小雨が降っている。肌寒い。僕たちは駅前のコンビニでジャック・ダニエルを買って、それをボトルから直接かわりばんこに飲みながら海のほうへと歩いた。潮の香りがする。
 歩きながら彼は、僕とセックスがしたいと言った。僕は「OK」と言った。「でも、痛いのは嫌だよ」「痛くなんてないよ。気持ちよくしてあげる」彼はそう言ってから「やっぱり、いいや。また今度ね」と笑った。
 海岸は寒くて、沖のほうは真っ暗で何も見えない。僕たちは砂浜に腰を下ろして、とりとめもない話をした。寒いからウィスキーを飲む。「焚火がしたい」と彼が言う。「燃やすものがないよ」と僕が答えると、彼は「ジャック・ダニエルを燃やして」と言う。僕は「OK」と言った。
 ウィスキーの炎は青白く燃えて、だけど、すぐに消えてしまった。
#005 : 「ヘチマ水」  2005/03/01
 
 9歳の君は、攻撃的ミッドフィルダーであり、エキセントリックなピアニストでもあり、そしてまた熱心なヘチマの観察者でもあった。あの年の春に種を植えて以来ずっと観察日記をつけ続け、秋には若くておしゃれなママにヘチマ水をプレゼントした。ママはとても喜んでいたね。
 僕は今この手紙を書きながらEDRADOUR 10yが注がれたグラスを傾けている。それをゆっくりと口に含み、そして、これからさらにゆっくりと喉の奥に落とす。ねえ、こいつを飲むと、どうもあのヘチマ水を思い出すんだよ。すごく似た味がする。
 いや、君は僕にヘチマ水の使用を禁止していたっけ。あれは、ママ専用なんだ。でも、誤解しないでほしい。僕はあのヘチマ水を自分の肌につけたりはしていない。僕はただ、あのヘチマ水をつけたママのほっぺの味を覚えているだけなんだ。それとも、君は僕がママにキスをすることも禁止していたんだったかな。
  さて、君に何を書けばいいだろう。もう5年も会っていないから、今の君がどんなにたくましい少年に成長しているのか僕にはわからない。何年か後には、君はこのウィスキーを僕といっしょに飲めるようになるだろうか。いや、君はもう僕の知っている9歳の子どもじゃない。僕が知らないだけで、君はもう友達と酒を飲んだりしているのかもしれない。でも、ママと僕の子なんだから、そんなに強くはないだろうね。飲み過ぎないように気をつけるといい。
 いや、別に説教がしたかったわけじゃない。気を悪くしないでほしい。好きなだけ飲めばいい。好きなだけ飲んで、好きなだけ吐いていい。十代のときは、いっぱいムチャなことをして、いっぱいムダなことをして、それで楽しければいいんだ。胸をはって時間を浪費しなさい。
 友達と恋愛についての長電話をしなさい。夜中のゲームセンターをうろつきなさい。女の子にふられて泣きなさい。先輩にナマイキな口をきいて殴られなさい。先生に煙草を見つかりそうになってあわてなさい。ママはきっとそんなことに対して、すごくすごく君を叱ると思う。でも、いいんだ。君はそのたびにちょっと反省して、何かまた違うムチャなことやムダなことをすればいい。
 今は君と会えないけれど、僕はいつも君のことを想っている。君はもうそろそろ一人前の男だろう。くれぐれも、ママをよろしく。いつか、君に再会できることを楽しみにしているよ。そのときは、二人でEDRADOURを飲もう。
#004 : 「バラードという街」  2005/02/14
 
 マシュマロ・カフェ・モカのグランデを目の前に、僕は辟易している。彼女はまたトイレにメイク直しに行った。いいよ、おごってあげるよ、と彼女は言った。けれど、僕はだいたいスターバックスには全然来たくもなかったし、どうせなら自分の払いでエスプレッソ・マキアートを飲みたかった。さっきから彼女はニコニコして僕を見つめながら、ずっと僕の知らない友達の話をしている。
 なんとなく、レジの奥のロゴを見つめる。スターバックス・コーヒー。大学生のとき、英文講読の時間に読んだメルヴィルの『白鯨』を思い出す。スターバック一等航海士、寡黙な男。19歳の僕には『白鯨』は死ぬほど退屈に感じられた。咳払いばかりする中年の講師もひどく退屈な人だった。僕は講師の話なんてろくに聞かず、下らない考えごとばかりをしていたのを覚えている。今も、あのときに似ているかもしれない。
 ごめんね、トイレ混んでた、と言って彼女は席に戻ってくる。少し僕の肩に手を置いた。彼女は旅行に行きたいという話を始める。グアムとかサイパンとか。僕は適当にあいづちをうちながら、また『白鯨』と、そして海のことを考える。僕の祖父は漁師だった。父も少年の頃は漁師になりたかったのだそうだ。けれど、祖父自身の猛反対もあって、それはあきらめたようだ。そのせいか、僕はひどく漁師に憧れている。腕力もなく、すぐ船酔いする僕が、漁師になんてなれるはずもないのだけれど。
 スターバックスの発祥の地は、港町シアトルのバラードという地区だ。スカンジナヴィア系移民の暮らす漁村で、彼らは濃いエスプレッソとスタウトを好む。アイボリーのフィッシャーマンズ・セーターに身を包んだ、たくましい漁師たちのことを思い浮かべる。冷たい海、曇り空、漁船はさほど大きくはない。漁師たちはアクアビットを一杯あおってから海に出る。―――カフェ・モカ飲まないの、と彼女が訊く。ねえ、マシュマロいっこちょうだい。いいよ、と僕は答える。
 僕は、バラードという街を思い浮かべる。港に漁船が着いて、たくさんのまるまると太った鮭が水揚げされる。漁師たちは船から降り、絡まった網をほどく。海の恵みに感謝しながら。そこにはメルヴィルの描いたような憎しみは全然なくて、ただ鮭たちへの愛着のみがある。―――旅行、いっしょに行こうよ、と彼女は言う。僕はあいまいな返事をする。
 漁師たちは水揚げを終えると、港近くの酒場へと向かう。そこで男たちは陸地にしっかりと足をつけて、ゆっくりとうまいポーターを飲む。ひどく寒い夕に、常温のビールは漁師たちの疲れをそっと癒してくれる。漁師たちのお気に入りは地元のブルーワリー。Redhookは豊漁の味がする。―――ねえ、旅行、どこに行きたい、と彼女は僕に訊ねる。 
 僕は、バラードに行きたい。
#003 : 「50°スミノフ−20℃」  2005/01/13
 
  タクシーの中でキスしてるときはもうしらふで、別にこの娘の部屋には寄らないでいいやって冷静に考えてた。
バーのカウンターでは勢いで口説いてしまうことがある。
縁日の射撃で必死に狙った景品は、手に入った瞬間に魅力が消え失せる。いや、別に悪い娘じゃない。 友達になればよかった。
もう、遅いか?  いや、まだ間に合うだろう。
 部屋に着いてすぐ彼女はシャワーを浴びに行った。僕はどうすればいい? 
キッチンとリビングの間には簡単なカウンターがあって、そこには甘いリキュールがいくつかと50°のスミノフが一瓶。
僕はカウンターを回りこみ、スミノフのボトルを持ってキッチンに入る。
 ほとんど空っぽの冷凍庫。 レディ・ボーデンの隣にスミノフのボトルを寝かす。
ついでに冷蔵庫のドアを開けて比較的飲めそうなビールを選び出す。
しばらくビールを飲みながら本棚とCDラックをチェックしていると、彼女がシャワーから出てきた。さっきバーのカウンターでしていたような話を再開する。どうということのない話。どこにも行けない、ベクトルが0の話。
でも、そのうちに少しずつ彼女は自分の話を始める。子どもの頃の悪い想い出とか、抱えているコンプレックスとか、忘れられない失恋とか。別に僕はそれを聞くのが嫌じゃない。僕はただ話を聞く。ときどき頷きながら。
 時々彼女はちょっと泣いた。僕はベッドのすみで、肩から胸にかけて泣き場所を提供した。僕のシャツが濡れた。僕は彼女のおでこと、それから頭のてっぺんにキスをした。抱きしめて、髪の毛を触った。
明け方、話し疲れて彼女は眠る。
 僕はベッドから抜け出す。キッチンへ行き、さっき冷やしたスミノフを取ってくる。CDラックからコートニー・ラヴの「America’s Sweetheart」の国内版を抜き取る。矢沢あいの描いたコートニーは少しもコートニーのようには見えない。本棚からはメリッサ・バンクのハード・カヴァーを取り出す。
ソファに座って、タンブラーにスミノフを注ぐ。−20℃のスミノフはとろりとしてゆっくりと落ちる。僕はその透明なゲルから、コートニー・ラヴの愛液を連想した。一口飲んで、次に何か奇蹄目の動物の羊膜を連想した。サラブレッドとか、あるいはマレーバクとか、もしかしたらユニコーンとか。
ヘッドフォンのコートニーと、活字の向こうのメリッサ・バンク次第。でも、たぶん彼女が目を覚ます前に、僕は部屋を出て行くだろう。僕たちは友達になれるだろうか?
#002 : 「アパシーの取り除き方」  2004/12/22
 
  カラスがゴミを漁る音が聞こえる。
塩化ビニールとアスファルトの擦れる音。 餌を奪いあう鳴き声。
新聞配達のバイクのエンジン音。搬入トラックの扉が開く金属音。
学校へ行く子どもたちのしゃべり声。
どこか近くでトーストとベーコンの焼ける匂い。
カーテンの隙間から射しこむ細い陽の光。
朝はもう動きだしていて、僕はしかたなくベッドから這い出る。
    ベッドサイドのエヴィアンでアスピリンを多めに飲み込む。ひどく寒い。バスルームへと急ぐ。バスタブの蛇口の下に多目のバスジェルを垂らす。寒い朝にはひどく不似合いのココナツの香。そこに勢いよく46℃の湯を注ぐ。バスルームは死んだように冷えきっていて、バスタブがいっぱいになるころには湯の温度は下がっている。
ハイネケンのシックスパックをベランダへ取りに行く。外気に触れてきんと冷たい。ソファに投げ出されたままのジーンズのポケットから、くちゃくちゃになったラッキーストライクのソフトパックとジッポを取り出す。机の上から古本屋で買ったチャールズ・ブコウスキーの短編集を取り上げる。その全部を両手で抱えて、バスルームへと戻る。
 服を無造作に脱いで放り投げ、いっぱいになったバスタブにゆっくりと身体を沈める。少し湯と泡があふれる。温度差に鳥肌が立つ。シャワーカーテンの向こうのラジカセをオンにする。U2の新譜。悪くない。小説を手に取る。本は泡だらけになるが、気にしない。ブコウスキーだって気にしないだろう。ブコウスキーのペーパーバックがこぎれいなほうがおかしい。泡がついていたっていいし、トマト・ソースの染みやチョコレートや虫の死骸や煙草の焼け焦げがついているほうがしっくりとくる。そんな小説だし、そんな朝だ。僕はそこで、豚のようにくつろぐ。
 ハイネケンを3缶と半分、煙草を10本吸った頃、ブコウスキーの短編集の中ではたくさんの吐瀉物や血やなにやらが流れ、僕のバスタブの湯は冷めてぬるくなる。
ボノは信じられないくらい若々しく歌い、オール・リピートの2周目に入っている。4曲目はFloodのプロダクションだろう。9曲目はまるでノエルの書くバラードみたいだ。
バスルームから出たらNine Inch Nailsの昔のアルバムを引っぱり出してみることにしよう。それから今日は何かいいものが書けそうな気がする。頭をしゃっきりさせてパソコンに向かい、いくつかのまだアイディアだけのストーリーたちをまとめあげよう。
僕は立ち上がり、排水溝にハイネケンの残りを流して、バスタブの栓を抜き、身体についた泡をシャワーで洗い流す。身体を拭きながら僕は今日を考えている。よいストーリーが書けるまでは何も飲まないことにしよう。昔のU2とNine Inch Nailsと、もしかしたらOasisも聴きながら、ちょっと暴力の匂いのするストーリーを書こう。 きっとうまくいく。
そうして書き上げてから、いつものバーに行ってハイネケンなんかじゃない美味いビールを飲もう。
それからライムを齧ってテキーラを飲んで、誰かが話すのを聞く。
僕はそれに耳を傾ける。
#001 : Double Matured  2004/12/03
 
  見知らぬバーの階段を上っていく。
夕方目が覚めて、歯が痛いのに気づいた。
歯の痛みは鈍いけれど、何だかそれだけじゃない違和感があった。
目が覚めたというよりも、まるで眠りからどこかへ放り出されたというような感覚。シャワーを浴びて、できるだけ痛くないように歯を磨いて、服を着た。

それでも、その違和感は依然としてそこにあった。
    だから、どこかで落ち着いて本を読もうと思い、見知らぬバーの階段を上っていく。
バーテンダーが「いらっしゃい」と言う。声は大きすぎない。知らないジャズが聞こえてくる。
店内はほどよく暗くて、客は誰もいない。まだ夜もはやい。
僕はカウンターの端のやや照明が明るくあたる席に座る。
ヒューガルデンのサーバーが目に入り、それを注文する。そして、鞄のなかからヘミングウェイの『移動祝祭日』を取り出して、続きを読み始める。栞がはさまっているのは、パリのヘミングウェイ青年がガートルード・スタインとの友情を終える話の途中だ。
しばらく暖色の照明の下で『移動祝祭日』を読み続ける。ビールを飲みながら。ヘミングウェイがミス・スタインとの友情を終え、そして決して友情ではない表面上のつきあいを再開する、という結末を読み終えたところでちょうどビールがなくなる。僕は本を閉じて、顔をあげる。
一杯のヒューガルデンが歯の痛みをほんの少し和らげてくれたようだ。けれど、あの違和感はまだ消えようとしない。
83年のマッカラン18yを飲むことにする。
僕にそれが届くまでのほんの短い時間、僕は所在なく頬杖をついて考え事をする。
現実的なことを。
そして、再び『移動祝祭日』へと逃げ帰る。
僕はパリの街を旅する。僕がマッカランを飲むあいだ、ヘミングウェイはカキを食べ、オー・ド・ヴィーを飲み、フィッツジェラルドと口論をし、詩人のダニングにミルク瓶入りの阿片を届ける。
起きてから何も食べていないことに気づいて、店の黒板に目をやる。
痛い歯が動揺して噛みづらいので、いちばん柔らかそうなものを注文する。バーテンダーはプロシュートの皿を僕の前に置く。そして空いたグラスを下げながら、僕に何を飲むか訊ねる。僕はカウンターの後ろの棚を見渡してから、ラガブーリンのダブル・マチュアドを頼む。
バーテンダーは微かににっこりしてラガブーリンを注ぐ。そして、プロシュートとラガブーリンはとてもうまくいく。あの違和感はやっとうすれはじめ、僕はバーテンダーに話しかける。
「ねえ、プロシュートとラガブーリンはとてもうまくいくね」